スペインやイタリアに行く前には聖書を読み、出雲大社に行く前には古事記を読みます。
その土地の文化や芸術をより楽しむために。
しかし、手段と目的が逆転することもあります。
恐竜図鑑を読んでいたら新しい博物館を見つけた、といった具合に。
一乗谷はいずこに
そのような出来事に、いま読んでいる『国盗り物語 第三巻』で出くわしたのです。
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1971/12/22
- メディア: 文庫
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第三巻のサブタイトルは『織田信長(前編)』というわけで、信長が尾張でようやく頭角をあらわしはじめるような時期が描かれている。
信長が今川義元を桶狭間(正確には田楽狭間)で討ったあと、明智光秀が越前へ向かうエピソードへ物語は切り替わる。
そこで、舞台は一挙に「一乗谷」へ移る。
そこで司馬遼太郎の語る、その一乗谷の描写がたまらなく粋なのだ。
たとえば、
「一乗谷とは、にぎやかか」
「そりゃもう、朝倉様五世百年のお城下でございますからな。ご城塁、社寺、お武家屋敷、町家、鍛冶場などがびっしりと、谷にひしめきまして京のにぎわいに劣りませぬ」
とか
一里ばかりの細ながい谷で、その谷に一本だけの公道がついている。その公道の左右に町がながながと伸びており、防衛としては、公道の前後をおさえるだけで町は難攻不落のものとなる。
とか
そんな地形のところをえらんで都府を築いた例は唐土にもない。本朝にもない。はじめて一乗谷をひらいた朝倉氏の中興の祖敏景(としかげ)とは天才的な人物だったのであろう。
とか、とにかくもうべた褒めなのである。
そんな賛美を浴びまくる土地がどんなところであるか、気にならないわけがない。
地図で一乗谷をしらべると、なんと恐竜博物館からそう遠くない。
帰り道にすこし迂回すれば寄れる範囲なのだ。
なので、寄ってきた。
勉学に励むために聖地を訪れる
よく考えれば、ぼくがやっていることはアニメや映画にインスパイアされる“聖地巡礼”と同じ行為かもしれない。
小説を読んで、単にその舞台を訪れてみたくなったという。
ただ、そこで何かを吸収してきたいという目的意識があるかどうかで、巡礼する価値というのは大きく変わってくると思う。
とりわけ遺跡なんかは資料館や博物館があったりして勉学にもうってつけなのである。
より作品を楽しむという目的に加え、その分野をすこしばかりかじれると、なお人生としての幅がひろがる。
恐竜博物館もそう。
何かの本に書いてあったが、ある特定の分野を学ぶのであれば、その聖地を訪れて学ぶといい、と。
イタリアやスペインで聖書を学ぶ。
出雲で古事記を学ぶ。
一乗谷で、朝倉氏の歴史を学ぶ。
福井県で恐竜を学ぶ。
単なる巡礼で済ませない、“勉学”にこそ、本当にその土地を訪れる意味があるとおもうんです。