同じジャンルの本を読んでいても、主張がまったく異なることがよくある。
梅棹忠夫の名著『知的生産の技術』にも読書の章があったので読みなおしてみたが、いままでの著者たちと真っ向から対立するような主張が見うけられたので、その意図をさぐってみたい。
■本はすべて通読すべきか
さて、何がちがうかというと、本との向き合いかたが、いきなりちがうのである。
というのも、
まず、本というものは、はじめからおわりまでよむものである。
とはじまる。
その根拠は、
それが、著者のかんがえを正確に理解するための基本条件の一つだからである。(中略)各部分は、全体のなかでそれぞれしかるべき位置におかれることによって、意味をもっているのである。
というところにある。
さらに、おもってもみない説教がつづく。
半分よんだだだけとか、ひろいよみとかは、本のよみかたとしては、ひじょうにへたなよみかたである。
と非難する。
ななめよみなんかについても、「危険」「非能率的」と追い討ちをかける。
ショウペンハウエルにしろ梅棹氏にしろ、巨匠たちの発言は往々にして過激なのである。
しかし、僕も巨匠に刃向かうほど、肝がすわっていない。
反論するのではなく、「なるほどー、そんな考えもあるんですねー」と穏便に事をはこぶことにしている。
かんちがいしないでほしいが、臆病なのではない。寛容なのだ。
さて、そんなふうにして巨匠の教えに耳をかたむけていると、なにやら歯切れがわるくなってくる。
はじめからおわりまでよんだ本についてだけ、わたしは「よんだ」という語をつかうことを自分にゆるすのである。一部分だけよんだ場合には、(中略)わたしはその本を「みた」ということにしている。
その予感はここであきらかになる。
そして、あたりまえのことだが、「みた」だけの本については、批評をつつしむ。
批評?
批評のためにぜんぶよむの?
著者は明言していないが、書評のためならたしかに通読したほうが、その本を100%評価できるかもしれない。
でも、自分のためならべつにいいよね?
目的が批評か、インプットか、によって読みかたがかわってくるんだろう。
書評なんておそれ多くてする気もないが、皆さまにおかれまして、もし本を批評されたい場合は、「はじめからおわりまでよむ」ことをおすすめします。
■いわないために、読む
もうひとつ、他の本にはない視点があった。
この本にはもちろん、傍線をひくことやノートをとること、何度も読むことなど、他の本で奨められていたメソッドもたくさん書かれている。
けれど、ここではあえてそれらについては触れない。
なぜなら、それが今回、梅棹氏からまなんだ最大の教えだからである。
本は何かを「いうためによむ」のではなくて、むしろ「いわないためによむ」のである。つまり、どこかの本にかいてあることなら、それはすでに、だれかがかんがえておいてくれたことであるから、わたしがまたおなじことをくりかえす必要はない、というわけだ。
というわけだ。
ここには、さすがとうならざるを得なかった。
本当にそういう気構えでのぞんでいないと、こんな文章はかけないもんな。
それを意識するだけで自分がかたる言葉の価値があがるんじゃないか。
この本で学んだことは2つ。
(1)書評をかくなら、はじめからおわりまでぜんぶ読む
(2)他の本に書いてあることを書かないために、他の本を読む
以上。