まさか自らの愚かさをここにさらすことになろうとは ──
ショウペンハウエル著の『読書について』を読んだ結果、涙で明日が見えなくなりそうになりました。
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/07
- メディア: 文庫
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この本を読む前に、まずはこの本のコンセプトについて話しておかねばならない。
全ページで160ページほどしかないので、読みやすい本ではある。
だが、内容は濃い。
そして、タイトルの「読書について」に惑わされてはいけない。
目次をみると、
・思索
・著作と文体
・読書について
の三部構成となっており、ボリュームはいちばん「著作と文体」がおおきい。
でも、著者がもっとも主張したいのは、「思索」の章だとおもう。
その証拠に冒頭で
読書は思索の代用品にすぎない。
と、バッサリ斬り込んでいる。
あくまで読書はプロセスにすぎず、最終的には自分の頭で考えなければ意味がないということである。
著者はかなりの毒舌なのか、賢者なのか、
読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。
(中略)
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。
(中略)
彼らは多読の結果、愚者となった人間である。
と皮肉たっぷりにいう。
ただ、単なるドSとも違って、
砂に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。(中略)歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
と、大きな指針をしめしてくれているのである。
そして、気をつけるべきこととして、
読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
という。
その心は、
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。
という思想に起因している。
では、多読せずして良書にめぐり逢うにはどうすべきか。
彼は、シュレーゲルの警句
「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」
を羅針盤にしているようだ。
ふむふむ、古人な書という意味では、このショウペンハウエルの本だって、古典だろう。
岩波書店は良書ばかりのはずだ。
僕の選球眼にくるいはなかった。
── と、有頂天になりかけたのも、束の間
我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している。
ギクッ。
肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる。(中略)だか、思想体系と言えるようなものを所有している者は、きわめて少ない。
読者の問題意識、目的意識が高くないと、書籍のポテンシャルを最大限に引き出せないということである。
このような人々は、いかなるものにも客観的興味をもたない。したがってまた、読んだものも、そのままの形では、彼らの精神に付着しない。
賢者は自分の思想体系にあった形で、本の内容をかみ砕き、吸収し、己の栄養とするらしい。
つまり彼らは読んだものを、何一つそのままの形ではとどめていないのである。
なんと。
僕が本文のまま、ここ(ブログ)に転記していること自体が愚行ではないのか。
かみ砕けていない証拠ではないのか。
裏目に出たか ──
いや、このブログも思索のプロセスのうちと考えれば、なんとか言い逃れできるんじゃないか。
屁理屈っぽいけど。
小手先のテクニックじゃあ、ツールとしての書物をフルには活かしきれない。
だから、何のために読むのか、何を解決したいのか、どうありたいのかを見つめなおしなさい、というのが著者の提言である。
古人の書は的を射ている。
正論なのだ。
だから時としてショッキングなのである。
でもそれを真にうけてしまうと、立ち直れなくなるだろう。
自己嫌悪におちいりそうになる。
だから、いろんなテクニックや知恵を駆使して、すこしでも自信にかえようと努力するのである。
最後に。
この本のなかでは唯一と云っていいだろう、読書術的な方法を説いている章があるので、そこから一節を紹介してしめくくろう。
重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。(中略)すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。
つい似たような内容でも別の本にどんどん飛びついてしまうおろかな行為を、ここでも警告してくれているのである。