昨日の『レバレッジ・リーディング』なんかは、ビジネス書を最大限に活かす方法を論じた本だった。
あまねく読書術系の本は、そういうビジネス書の読み方にスポットをあてることが多い。
概して、本を読む目的意識をもって、必要な部分だけを読みひろう、というような効果的な読み方に終始する。
しかし、小説やエッセイの場合なんかはどうだ。
一部だけピックアップしても、ぜんぜん意味をなさないことだろう。
やはり全体をとおして読むべきなんじゃないか。
小説を読むのがニガテなぼくが、小説の読み方について勉強してみた。
■本を読む本/M.J.アドラー
ずっと本棚にねむっていて、いつか読もうとおもっていてなかなか日の目をみなかった本がある。
アドラー著の『本を読む本』である。

- 作者: J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山滋比古,槇未知子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/10/09
- メディア: 文庫
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名著だとはきいていたので、断捨離できずそのままにしてあったのだが、この読書月間のおかげでようやく手を伸ばす機会にめぐまれたのである。
目次をながめていて、ひときわ目をひいたのが「第三部 文学の読み方」である。
小説はニガテだけど、何か得られるものがあるかもしれない。
人生がかわる出逢いがあるかもしれない。
読んでみて学んだことを記しておく。
■小説、戯曲、詩の読みかた
著者は小説、戯曲、詩などの書籍を「文学書」と総称し、ビジネス書のたぐいを「教養書」とよんでいる。
以下の引用文はそれを前提として、理解してほしい。
まず、文学を読むときにしてはならないこと、として三点かかげている。
・文学の影響力に抵抗してはならない
・文学の中に名辞、命題、論証を求めてはならない
・知識の伝達の真実性や一貫性をはかる尺度によって文学を批判してはならない
つまり、文学にロジックを求めてはならない。納得性を求めてはならない、ということだ。
アートとして浸ることが求められる。
それを著者はこう言い表している。
「教養書」を批判する場合の基準は「真」だが、文学の場合は「美」である
さらにこうたたみかける。
「作品の好ききらいを言う前に、読者は、まず作品を誠実に味わうよう努力すること」
いかなる本にたいしても積極性は大事だが、ビジネス書はエッセンスを見抜く力が必要なのに対して、小説はストーリーや世界観に移入する力が欠かせないようだ。
とりわけ小説を読むにあたっては
小説は一気に読むものである。
(中略)
速く読むこと。そして作品に没入して読みふけること。
(中略)
自分が作中人物になりきって、どんな出来事も素直に受け入れてしまうのだ。ある人物の行動が肯定できなくても、自分の世界を離れて、その人の世界に住もうと努力すれば、やがて、理解できるようになる。
ぼくの場合、東野圭吾氏の小説は長編だろうと一気に読破できる。一方、村上春樹氏の小説は途中で頭に入ってこなくなってしまう。
きっとぼくの感受性がにぶかったり、忍耐がたりなかったりするからなんだろう。
そんな人にもアドラー氏はフォローしてくれている。
(作中の)事件がどんなに錯綜していても、重要なものはやがてわかってくる。
(中略)
大切なことは、たとえ、物語の発端ですべてがはっきりしていなくても、読者は心配しなくてよいということだ。実際、はじめからはっきりしているべきではない。
(中略)
小説を読み終わってふり返ったとき、はじめて、事件の関連と行動の秩序を理解するのである。
やっぱり小説はぜんぶ読みきらないとダメなんだなァ。
カギは、いかに物語に没入して速く読みきるか。
うーん。
ビジネス書を軽んじるわけじゃないけど、ぼくにはビジネス書のほうが向いてるみたいです。