美術館に訪れて、久々に「これは一体何なんだろう」「どんな意図があったんだろう」という感情に出くわした。
それは図らずして、この『あっぷりノート』の命題でもある「大きなお世話と小さなお世話」について、一つの解をもたらす結果となった──
7年前に訪れて、夫婦ともに超気に入った美術館。
その名のとおり、現代アートが多く展示されている。
■21世紀美術館
タイトルから察しがつくと思うが、石川県は金沢市の『21世紀美術館』に行ってきた。しかし、今回は違う。
お気に入りの街でアートに触れたいという気持ちと、家族連れ歓迎と云う美術館の待遇がマッチした。
(決して外は台風だから背に腹は代えられん、というネガティブな理由ではない)
しかし、美術館に入るやいなや、現代アート特有の
「これは一体何なんだろう?」
「どうしてこんなことしようと思ったんだろう?」
という不可解な感情に見舞われる。
普段は「わからない」じゃ済まされない。何とか解決しなきゃ、という使命感が先行する。
でも今回、アートを目の前にして「まったく理解できる気がしない」という絶望感のほうが強く襲いかかってきたのである。
「解らなくていい。その『何なんだろう?』と思う感情こそが大事」
と、励ましてくれた。
どうしたんだ、妻よ。いつの間に達観したんだ、と思いきや、
「って、岡本太郎か誰かがそんなようなこと云ってた」
そうだったのか。では今日から伝道師であるキミを青山太郎と名付けよう ──
それはさておき、太郎の進言にぼくは、のっぴきならぬ状況から救われた気がした。
受け取り方は自由だ。
「解せない」ことに無理やり解答を求めなくていい。
琴線に触れるものがあれば追求したっていいし、興味が湧かないのであればスルーすればいい。
とにもかくにも、「これ、何だろう?」という感情が非日常を演出しているんだろう。
しかし、もはやそんな奇行でさえアートに感じられるくらい、ぼくの心はクリエイティブになっていた。
要は考え様である。
なるほど。アートは解らなくていい。
共感してくれる人もいれば、別に興味ないという人がいたっていい。
好きなようにすればいい。理由なんてないから。
そんなことを悟って、ふとポケットに入っていたコイツを思い出した▼
以前作った「石川県章」だ。
実際に足を運んでオリジナル県章に相応しいかを検証しに来たんだった。
食に目がない妻には「もうちょっと魚介のテイスト入れといたら?」とか提案されたが、ぼくはこのデザインよりも自分の行為について、ある一つの解を導き出すことに成功した。
それは「山積みのティッシュ」と「石川県章」には「これ何なんだろう?」「なんでこんなことしちゃったんだろう?」という点で共通しているということ。
ぼくがやっていた奇行もアートだったんじゃないか。
決して単なる「大きなお世話」に留まる次元の愚行ではなかったんじゃないか。
むしろ崇高かつプラクティカルな活動と云って差し支えないだろう。
ぼくは胸の奥のわだかまりがすっと溶けていくのを感じた。
生涯を賭して、どうにかして定義づけてやろうと思っている。
▼ぼくの持論は以下のエントリーに展開しています
その定義にこじつけてしまえば、「大きなお世話」は送り手主動なので「アート」。
そして、「小さなお世話」は受け手主動だから「デザイン」と云える。
意外とアートとデザインはそんな関係にもあったんじゃないかと勝手に腕組んで鼻を高くしている。
(ひがし茶屋街 茶房『素心』にて)
ちなみに「余計なお世話」は誰のメリットにもならないから「迷惑」。
そういえば、ランチもディナーも石川県庁の目の前でとっていたから、いつでも石川県章を手に殴り込みに行く機会はあった。
でも、もし物申していれば、それはきっと「余計なお世話」として門前払いにあっていたことだろう。
「どうしてこんなことしようと思ったんだろう?」