「作曲はサウンドスケープの編曲作業」とは私の言葉である。
なーんて。いや、「《フレームワーク作曲法》とは云いつつも、結局は編曲ばかりじゃないか。もしかすると、編曲にしか使えないんじゃないの?」という疑問にお応えするために、旅先でわらびもちを頬ばりながらあみ出した理論なのである。
▼原点としてのサウンドスケープ
「サウンドスケープ」とはマリー・シェーファーの造語で、自然の中に耳を澄ますことによって聞こえる「音の風景」である。
景色から音を切りとって、「曲」を紡いでいく。着想のきっかけはいろんなところに転がっていて、それが作曲家の手によって「曲」として具現化されるのだ。
まるで見えない水滴がそこらじゅうに浮かんでいて、何かの拍子に昇華してダイヤモンドダストとなるように。
いやあ、我ながらリリカルな描写、失礼いたしました。
とにかく、サウンドスケープは何処にでもごろごろしている、ということ。
現代音楽の巨匠ジョン・ケージは「自分の内なる音に耳を澄ますことで聞こえる」とも云っている。名曲《4分33秒》でそれはわれわれも体感することができる。
いずれにせよ、「耳を澄まそう」としなければ聴こえまい。この「耳を澄まそう」とする者たちが作曲家なのである。
たぶん世の中には色んな○○スケープってのがあって、触れる人によって感じること、創り出すものが違う。作曲家になる人もいれば画家になる人、詩人になる人がいたりする。そういうことだ、きっと。
▼作曲も編曲のうち
何かのアレンジ(編曲)というと、たまたま原曲があって、それを違うリズムや楽器で再現するから「作曲ありき」の発想になるけど、原曲ではなくそれをサウンドスケープだと考えれば、たとえ原曲というカタチがなくても、編曲作業で曲を組み立ててカタチにしていくことができる。
だから「作曲とはサウンドスケープの編曲作業」といえるのではないだろうか。
音楽理論なのか、先述の青島氏の持論なのか「編曲も作曲のうち」というが、私は逆に「作曲も編曲のうち」と思っている。
編曲も作曲のうち。作った曲は必ず演奏する機会を設ける。 - あっぷりノート
青島広志著《作曲家の発想術》
▼「サウンドスケープの編曲作業」の実践
夏休みということもあってちょっと足をのばして奥飛騨方面を旅してきた。
これは「サウンドスケープの編曲作業」を実践する恰好のチャンスである。目に映る山々、そして対話する私の内面に耳を澄ませてみた。
── 結果、何も聞こえなかった。
理論がまかり通るというのと、才能があるかどうか別問題である。
もし奇跡がおこってサウンドスケープが聞こえたとしたら、その機会にまた検証してみようと思う。
▼あっぷりへんしょん ~編曲ができれば作曲もできる~
編曲ができれば作曲家に仲間入りしたと云えるだろう。なぜなら鼻歌に色をつけられる技を身につけたも同然だから。
「デザインとアート」という話をしたことがあるが、「クリエイション」は両者に通ずる原点のようなものだと思う。
「クリエイション」はサウンドスケープから編曲という、云わば無から有を創造する作業にほかならない。
それを音楽というアート(技)で表現できるなら、みな作曲家である。
あとは、それを世間に認めてもらえるかはデザイン力にかかわってくることだ。そこが一番難しいのだけれど。