たまたまというかセレンディピティというのか知る由もないが、最近読んだ《小田嶋隆のコラム道》にも、《わが息子よ、君はどう生きるか》にも、「自分のスタイルを固めるのが大事」ということが記されていた。
しかもどちらも「文体」という意味でのスタイルで。
ということで、今回は「文体というスタイル」について考えてみることにする。
(考えながら文体が変わっていくことをご了承いただきたい)
私はこういう大それた人間だ、ということを持てるレトリックを余すとこなくつかい倒して塗りたくりたい、そう思っているからだ。
特に私は人前で話すことよりも、こういうオンライン上でこそこそものを書くことを好む人種なので、自らの無能や動揺を悟られぬようメッキを重ねて保身している。
そんな愚行も「ブランディングの一環で」といい放てば、聞こえはよくなる。ああ、この人は抜かりがないなあ、とケムに巻けると思っている。
さて、話を本筋にもどそう。私はこれからどんな「文体」でものを書いていくか、せっかく先人からきっかけをもらったので機を逸する前に思慮しておくとする。
ちなみな私の云う「文体」は、一人称代名詞と語尾の調子から構成される。
なぜだか、私の「ですます」は独善的なアトモスフィアを醸し、説教くさくていやな感じがする。
一方の「である調」だと意外と素直な気持ちが吐露できる。「私は『ですます』の気品にあふてますよ」的に飾らないのがいいのかもしれない。
書く側として自然に筆がすすむので、たぶん読む側も嫌みを感じないのでは、と思う。たぶん、ではあるが。
今回、小田嶋隆氏の著書を読んだのははじめてだったので、彼の文体についてどうこういえる目利きも立場も私は持ち合わせていないのだ、率直な感想を述べることはできる。ひとこと、「好き」だと。
山形浩生氏や中島らも氏の本をはじめて読んだときも同じような感覚だった。彼らに共通するのは「である」調であること、である。
ここまで綴ってきて感じたのは、
・能弁をたれるなら「ですます」調
・試行錯誤するなら「である」調
というのが、私のスタイルにはしっくりくる、ということ。
だから、作曲について右往左往してる状況は「である」で伝えるほうが伝わる気がする。愚生の必死さが。
(考えながら文体が変わっていくことをご了承いただきたい)
▼文体について
「文体」についてはむかしからよく考えていたテーマである。▼語尾について
このブログは基本「ですます調」で書いている。一般ウケを考えてのことだが、そもそもテーマが一般ウケしないことは明らかなので、そのロジックは実は破綻している。・能弁をたれるなら「ですます」調
・試行錯誤するなら「である」調
というのが、私のスタイルにはしっくりくる、ということ。
▼一人称代名詞について
ちょうど「愚生」が出てきたので、一人称代名詞についてもふれておく。わが国にはバラエティに富んだ一人称代名詞がある。
日本語の一人称代名詞 - Wikipedia
一人称代名詞バリエーションの数々。
結論からいって、私は「私」を使っていこうと思う。
「ぼく」をつかうほど人間味にあふれてないし、「俺」をつかうほど自信に長けていない。
「吾人」をつかうほどのレトリックを持っていないし、「小生」をつかうほど遜ってもいない。
まして「朕」をつかうほどの家に生まれたわけでもない。
「私」をつかうのは、要は無難だからである。そのメリットはいつでも誰でもつかえる汎用性にある。ユビキタスが如く。
糸井重里氏や植松伸夫氏のいう「ぼくは○○だ。」という文体もステキだし、
池波正太郎先生や林望先生の「私は○○であります」もステキ。
そう考えると、文体は何でもいいことがわかる。要は「誰が書いたか」ということのほうが大事なのだ。
ブランディングも大事だけど、やっぱり品質だよね、ということ。
結局いきつくのは、「文体」ではなく「生き様」というスタイルの大切さである。
文体にこだわらず、「結局は人だよね」そういわれる人間に私もならなければならない。
「吾人」をつかうほどのレトリックを持っていないし、「小生」をつかうほど遜ってもいない。
まして「朕」をつかうほどの家に生まれたわけでもない。
▼あっぷりへんしょん ~結局は「人」~
いろんな先生方の文体をよく気にかけてみている。池波正太郎先生や林望先生の「私は○○であります」もステキ。
▽参考文献
- 作者: 小田嶋隆
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